大洪水(だいこうずい)とはしばしば、天誅として文明を破壊するために神々によって起こされたとする神話・伝説上の洪水を指す。
大洪水(洪水神話、洪水伝説)は、世界の諸神話に共通して見られるテーマであり、聖書(旧約聖書)『創世記』のノアやノアの方舟、インド神話、ヒンドゥー教のプラーナのマツヤ、ギリシャ神話のデウカリオーン、および『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティム(英語版)の物語は、よく知られた神話である。過去現在の世界の文化のうち大部分が、古い文明を壊滅させる「大洪水」物語を有している。
諸文化における大洪水神話
古代オリエント
シュメール
シュメールの神話では、エンキ神がシュルッパクの王ジウスドラ(英語版)(「命を見る者」という意味で、彼が神から不滅を約束されたことから)に、洪水による人類抹殺を予告する。しかし、神がなぜこれを決定したかという部分については、粘土板から失われている。エンキ神は、大きな船を作るように指示する。命令についての文章も、同じく神話から失われている。7日の氾濫の後、ジウスドラは供物と祈りをアン(空の神)とエンリル(最高神)にささげ、ディルムン(シュメールにおけるエデンの園)で神から永遠の命を授けられる。
シュメール王名表も大洪水について言及している。その説明によれば、最初エリドゥに渡った王権は、次いでバド・ティビラ、ララク、シッパル、シュルッパクへと移る。イラクにおける発掘で、シュルッパクの洪水は紀元前2900年~紀元前2750年頃、ほぼキシュの街まで及んだことが証明されているが、この街の王エタナは、大洪水の後、最初にシュメール王朝を成立したと言われる。 ジウスドラの伝説はエリドゥ起源の粘土板断片のコピーであり、その楔形文字型から、紀元前17世紀と年代が特定される。 [1]
バビロニア (ギルガメシュ叙事詩)
バビロニアのギルガメシュ叙事詩によれば、 Sin-liqe-unninnによる He who saw the deep版(タブレット11)の終わりのほうに、大洪水の参照がある。不死を追い求めていたギルガメシュ王は、一種の地上の楽園・ディルムンで、ウトナピシュティム(英語版)(シュメール神話のジウスドラ(英語版) zi.u4.sud4.ra2 をアッカド語に直訳した名前)に出会う。ウトナピシュティムは、大洪水によってすべての生命を破壊するという神の計画について、エア神(シュメール神話のエンキ神に類似)が彼に警告し、船を作って彼の家族や友人、財産や家畜を守るよう指示したことを語る。大洪水の後、神はみずからの行動を悔やみ、ウトナピシュティムに不死を与える。
アッカド (アトラハシス叙事詩)[編集]
バビロニアの『アトラハシス叙事詩』(紀元前1700年までに成立)では、人類の人口過剰が大洪水の原因であるとされている。1,200年間の繁栄の後、人口増加によって齎された騒音と喧騒のためにエンリル神の睡眠が妨げられるようになった。エンリル神は当面の解決策として、疫病、飢饉、塩害など人類の数を減らすための全ての手段を講じる神々の集会を援助して回った。これらの解決策が採られてから1,200年後、人口は元の状態に戻った。このため神々が洪水を引き起こすという最終的な解決策を取る事を決定した時、この解決策に道義的な問題を感じていたエンキ神は洪水計画のことをアトラハシスに伝え、彼は神託に基づく寸法通りに生き残るための船を建造した。
そして他の神がこのような手段に出るのを予防するため、エンキ神は結婚しない女性、不妊、流産、そして幼児死亡など社会現象の形で新しい解決策を作り出し、人口増加が制御不能になるのを防止した。
カルデア
神官ベロッソスの記述によれば、クロノス神がクシストロスに洪水の襲来を警告し、歴史を記録し、船を造るよう命じた。船はクシストロスの親類、友人、すべての動物を一つがいずつ乗せるために5スタディア×2スタディアの大きさに作られた。洪水が起こって水位が上昇し、船に乗り込んだ生き物を残して全てが殺戮された。水が引いた後クシストロスが船から鳥を放すと、全て戻ってきた。二度目に鳥を放すと足に泥を付けて戻ってきた。三度目に放すと鳥は戻ってこなかった。人々は船を離れ、神に供物を捧げた。クシストロスと妻、娘と、航海士は神の元へ運ばれ、神と共に暮らした。
ヘブライ (創世記)
『創世記』のノアの方舟の物語によれば、エデンを離れてから何代かを経て、ネフィリムが生まれ堕落し、お互いに争うようになった。 ヤハウェ・エロヒムは人間を作ったことを後悔し始め、全てを払拭するために大洪水を起こすことを決めた。 ヤハウェは地上にただ一人、救う価値のある男性ノアを見出した。 そこでヤハウェはノアに特別な大きさと設計の方舟を作るように告げた。方舟に乗せたのは、彼の妻、彼の三人の息子のセム、ハム、ヤペテ と彼らの妻、清い動物と鳥を雌雄7つがい(7匹か7組かの記述が異なる場合がある)、そうでない動物を2つがい、必要な食べ物すべてと苗木で、人間はもう一度白紙から始めるのである。 ノアが600歳になった年、アダムの創造から1656年後、ヤハウェは大洪水を起こした。
その説明によると、洪水は(1)40日間「天の水門」より降り続いた雨(これは『創世記』における最初の雨に関する言及である)と、(2)「とても深い泉」の水から生じている。 『創世記』の文を分析すると、空(蒼穹)の上に、天上の海ともいうべき大きな水のかたまりを想定していたのではないかと推測される。
「水の間に空間を作って水と水とを隔てなさい。」エロヒムは空間を作って、空間の下の水と空間の上の水とを隔てた。そしてそうなった。エロヒムは空間を「空」と呼んだ。
洪水の水は150日間地上を覆った。
その月の17日目に、方舟はアララト山の上に流れ着いた。 10か月め、その月の初日に、山の頂が見えた。 ノアが601歳になった年、最初の月、最初の日に地表が乾いた。次の月の21日目には地が乾き、ヤハウェはノアに方舟を離れるよう指示した。
洪水ののち、ノアは清い動物を供物にささげ、ヤハウェは、人間は幼いときから邪悪な性癖を持って生まれるのだからと、洪水で地上のすべてを破壊することは二度としないと約束し、自然の摂理を支えることを自身に約束した。 神はノアとこの契約を交わし、これにより人々はすべての動物に対する優越を与えられ、すでに命を宿していない肉を食べることを初めて許され、新しい法の元で地上に繁殖するよう指示される。新しい法とは、人が誰かの血を流したら、彼自身の血も流されなければならない、というものである。 ヤハウェは雲に虹をかけて、この永久不滅の契約の印とするとともに、のちの世代へのよすがとした。
エノク書
『エノク書』(エチオピア正教における旧約聖書の1つ)によれば、神は地上からグリゴリ及びグリゴリと人間の娘の間に生まれた、巨大な子供ネフィリムを抹殺するために大洪水を起こしたとされている。 神は大洪水を起こす前に天使メタトロンを派遣し、神に対して叛いていないノアの一族以外の人間、グリゴリ並びにネフィリム達に処刑執行を通達させた。グリゴリ達はこれを聞き悲嘆にくれたが、神はネフィリムのヒヴァとヒヤ(ヒヴァ、ヒアという名はヘブライ語で人間が悲嘆したとき発する言葉で、日本語で「うわー」、「あー」などのという程度の意味)の名を人間が失敗した時に思わず発する言葉として残すことで、彼らが存在した証とすることで彼らを慰めた。
ヨーロッパ
ギリシア
ギリシア神話には二つの洪水と二つの人類滅亡伝説がある (Ancient Greek flood myths) 。「オギュゴス(英語版)王の洪水」は「銀の時代」を、「デウカリオーンの洪水」は「最初の青銅の時代」を終焉させた。
オギュゲス王の洪水は、テーバイの創設者であり王であるオギュゴスの在任中に起きたことから名づけられる。世界中を襲った洪水は非常に破壊的だったので、ケクロプスの支配までは国は王のないまま取り残された。 [2]
アポロドーロスの「ビブリオテーケー」でデウカリオーンの洪水として語られる物語には、いくつかノアの洪水伝説に共通する点がある。プロメーテウスは息子のデウカリオーンに櫃を作るよう助言する。他の人間は、高い山に逃げた少数を除いてすべて滅ぼされる。テッサリアの山は砕け、コリントス地峡とペロポネソスより向こうの世界はすべて沈む。デウカリオーンと妻のピュラーは、9つの昼と夜を櫃で漂い、パルナッソス山にたどり着く。
ヘラニコスが語るさらに古い物語では、デウカリオーンの「方舟」はテッサリアのオトリュス山にたどり着く。別の記述では彼は Argolis、のちのネメアのおそらく Phouka の頂上にたどり着く。雨が止んだとき、彼はゼウスに供物をささげる。それからゼウスの言いつけに従って石を自分の後ろに投げると、石から男が誕生し、ピュラーが投げた石からは女が誕生した。アポロドーロスはここから、ギリシャ語の laos(人々)の語源は laas(石)にあるのだとしている。
ゼウスの息子のメガロスは、鶴の鳴き声に導かれてゲラニア山の頂上まで泳ぎ、デウカリオーンの洪水を逃れた。
地中海の大津波は、サントリーニ島の火山噴火によって起きたとする説がある。この噴火は、地質学上では紀元前1630年から紀元前1600年の間、考古学上では紀元前1500年に起きたとされ、これがデウカリオーンの神話へと発展した民間伝承の歴史的なベースになっているというのである。
プラトンは「ソクラテスの弁明」(22)で「大洪水のすべて」に言及し、「クリティアス」(111-112)では「デウカリオーンの大破壊」に言及している。さらに、アテネとアトランティス以来「多くの大洪水は9,000年の間に起こっている」とする論説は卓越している。
ゲルマン
古代スカンジナビアの神話では、ベルゲルミルはスルードゲルミルの息子である。彼と妻は、ベルゲルミルの祖父ユミルの血の洪水(オーディンと彼の兄弟のヴィリとヴェーによる虐殺)を生き残った、最後の霜の巨人である。彼らは中が空洞になった木の幹に潜り込み生き残って、新たな霜の巨人を生み出した。
神話学者の Brian Branston は、この神話と、アングロサクソンの叙事詩である『ベオウルフ』に述べられた事件との共通点に注目した。それらは伝統的に『聖書』の洪水と関連しており、したがって、アングロサクソンの伝統と同様、広くゲルマン民族の神話に一致する事件があったと思われる。
アイルランド
アイルランドの偽史書『アイルランド来寇の書』(Lebor Gabala Erenn)には不確かなところがあるが、アイルランドの最初の居住者はノアの孫娘ケスィル(Cesair)に導かれて、島にたどり着いた後40日の洪水によって死んだ一人を除いて全員だった。 その後、パルソローン(Partholon)とネウェズ(Nemed)の人々が島にたどり着いた後、別の洪水が起こって30人を除いて全員の居住者が死んだ。30人は世界中に四散した。
アメリカ
アステカ
アステカの神話にはいくつかの異説があり、それらの多くは正確さや信頼性に欠ける問題がある。
大洋の時代になったとき、400年が過ぎていた。それから200年、次に76年が過ぎた。それからすべての人類が失われ溺れて魚になった。水と空は互いに近づいた。一日ですべてが失われ、4つの花が我々の肉のすべてを食べつくした。大いなる山は洪水に飲み込まれ、水は引かず、50と2つの春の間そこにとどまり続けた。
しかし洪水が始まる前に、ティトラチャワン(Titlachahuan)はノタ(Nota)という男と妻のネナ(Nena)に「プルケ(pulque)をもはや作る必要はない。大きな糸杉をくりぬいて、その月のトソストリ(Tozoztli)を中に入れなさい。水が空に近づこうとしている。」と警告した。彼らが従うとティトラチャワンがそれを封じ込めながら男に「汝はとうもろこしの穂を一筋食べよ、汝の妻も同じくせよ。」と告げた。そこで彼らはとうもろこしの穂を互いに一筋食べて外に出る準備をし、水は凪いだ。[注釈 1]
-古代アステカ文書 Chimalpopoca 写本、大修道院長 Charles Etienne Brasseur de Bourbourg 訳
インカ
インカ神話では、ビラコチャは大洪水で巨人を倒し、2つの民族が地球に殖民された。ユニークな点は、彼らが密閉された洞窟で生き延びたことである。
マヤ
マヤ神話では、キチェ語で書かれた『ポポル・ヴフ』の第1部第3章によると、風と嵐の神フラカン(「一本足」の意)が樹脂の大洪水を起こしたのは、木から生まれた最初の人類(キチェ族)が、神々を崇拝しなくなって怒らせたからであった。彼はおそらく洪水の水より上の霧の風に住み、地面が再び海から現れるまで「地球」を示した。のちには、第3部第3~4章によれば、4人の男女が洪水後のキチェ世界に再び住み始めたが、その頃は混乱はあったものの全員が同じ言語をしゃべり、同じ土地に互いに集まってすんでいた。何度か証言されるように彼らの言語が変えられ、そののち、彼らは世界に散らばったという。珍しいことに、この記述には「方舟」が登場しない。「バベルの塔」は翻訳に依る。いくつかの訳は都市に着いた人々、他はとりでを表す。
ホピ
ホピ族の神話によれば、人々は創造主のソツクナングから繰り返し排除されたという。世界を破壊するのに、神は最初は火を、次には氷を使ったが、二度とも世界を作り直している間、まだ創造の掟に従っている人々を地下に隠して救った。しかし人々は三度目にも堕落して好戦的になった。そのため、ソツクナングは人々を蜘蛛女のところに導き、彼女が巨大な葦を切り落として人々を茎の空洞に避難させた。ソツクナングはそれから大洪水を起こし、人々は葦で水の上を漂った。 葦は小さな陸地にたどり着き、人々は葦から出て出発できるだけの食べ物を得た。 人々はカヌーで旅したが、それは内なる英知に導かれてのことだった。内なる英知は、頭頂にあるドアを通じてソツナングから伝えられるのである。彼らは北東に旅を続け、もう少し大きな島々を通り抜け、第四の世界にたどり着いた。 彼らが第四の世界にたどり着くと、島々は大洋の中に沈んだ。
カドー
カドー族の神話によれば、4人の怪物が力強く育って大きさが天に届くほどになった。そのとき、一人の男が中空の葦を植えるようにというお告げを聞いた。彼が実行すると、葦はとても早くにとても大きくなった。 男は、妻とすべての動物を一つがいずつ、葦に入れた。 洪水が起こり、葦の上部と怪物の頭以外は、すべてが水に飲み込まれた。 そのとき亀が怪物の足元を掘り、怪物を溺れ死なせた。 水が収まると、風が地球を乾かした。
メノミニー
メノミニー族の神話では、トリックスターのマナブス(Manabus)が「復讐への渇望に火をつけられて」、遊んでいた地下の神を二人撃った。 彼らが水に飛び込むと、大洪水が起こった。 「水は上昇し・・・マナブスがどこへ行っても追いかけてきた。」 彼は必死に逃げてミシガン湖まで来たが、水はますます早く追いかけてきたので、彼は山を駆け上がって頂上の高い松の木によじ登った。 彼は木に向かってもう少し大きくなるように四回懇願し、木はもう成長できなくなるまで願いを聞いた。 しかし水は上昇し続け、「上へ、上へ、ちょうど彼のあごの所まで来て、やっと止まった」。 地平線には、広がる水以外には何もなかった。 それからマナブスは動物に助けられたが、特に勇敢だったのはジャコウネズミで、彼が今日の私たちが知る世界を作った。
ミックマック
ミックマック族の神話においては、人々はおのれの邪悪さから、お互いに殺しあう。創造主である太陽神はこれに大いなる悲しみを感じ、その流した涙が大洪水を引き起こす。人々は樹皮のカヌーで生き残ろうとするが、地球上に残ったのはただ一組の老夫婦のみであった。 [3]
極東
日本
記・紀神話以外のものとしては、沖縄諸島周辺に各伝説があり、例として、奄美には昔、大島を沈める大波がきて、アデツ(用安の地名)の兄妹がそれを知らずに山へ登っていたため、助かり、兄妹で用安を作ったといった語りや八重山でも、昔、鳩間島に大津波が襲い、多くの人が亡くなったが、兄妹だけが島の一番高い所に逃げて助かったという話がある。石垣島にも同様の話が見られるが、人の傲慢による世の乱れのくだり(原因)と神罰の内容がやや西洋の神話に類似する。
洪水を逃れた兄妹の近親結婚という点では、後述の台湾・中国南部・東南アジア、アフリカのマンジャ族にも見られるが、長崎県西彼杵半島・五島列島の隠れキリシタンが伝える内容の「天地始之事」(江戸期末)では、生き残る前(洪水の前段階)に兄妹が近親結婚を行っているという点に特徴があり、人が増えて悪欲心が引き金となって、神罰が起こったとされるが、この近親結婚こそが洪水の原因と捉える研究者もいる。
中国
『史記』巻1[4]、『山海経』海内経[5]、『書経』等の経籍は、夏王朝成立の頃に伝説的な洪水があったことを記す。帝堯の治世に「鴻水天に滔る」状態であったため、鯀を治水に当たらせたが、九年経っても「水は息せず」、治水に失敗した鯀は処刑された。鯀の子の禹が後を継いで治水にあたり、左手に測量縄を持ち、右手に定規を持って各地を巡り、十三年かけて治水に成功したとする。
上記のように大規模な洪水の記録があるものの、九年洪水が続いても人間達が滅びることもなく、国家体制が何事もなく存続し治水事業が行われていることから、全土が水没するような大洪水とは異質であり、黄河の氾濫のような局地的かつ継続的な洪水であることがうかがえる。
他にも伏羲と女?が巨大な瓢箪に乗って洪水の難を逃れたという神話も伝えられている。
朝鮮
むかし、巨大な桂と天女の間で木道令(木の若旦那)が生まれた。ある日、大洪水が起きて木道令は倒れた桂の上で漂流した。漂流のさなか、木道令は蟻と蚊、そして少年を助けた。やがて、桂は島に到着したが、そこには老婆が二人の娘(一人は実の娘, 一人は養女)と一緒に住んでいた。少年の悪巧みで木道令は試練を経験するが、蟻と蚊の助けで試練を乗り越えて老婆の実の娘と結婚する。木道令は善人の先祖で、少年は悪人の先祖だと言う。
台湾・中国南部
台湾原住民のタイヤル族、サイシャット族、ツォウ族、ブヌン族、ルカイ族、パイワン族、アミ族、パゼッヘ族などの神話では、異なる洪水伝説が記録されている。
太平洋戦争中に台湾原住民の伝統音楽のフィールド調査をした日本人音楽学者黒澤隆朝は、アミ族の始祖伝説として以下の様な話を採録している。
「太古、南方にあったラガサンという大陸が天変地異で海中に沈んだ。そのとき臼に載って辛くも逃れだした男女が海流に乗って北上し、台湾にたどり着いた。二人はその地に落ち着いて結婚し、子孫も増えた。そして『我々は北にやってきた』ことを記念し、北を意味する「アミ」を民族名とした。」別の伝説では「ラガサン」は二人がもともと住んでいた土地の名ではなく、台湾に漂着したとき最初にたどり着いた山の名であるともいう。
またアミ族の神話では、洪水を逃れたこの男女とは兄妹であったともされる。結婚して最初に生まれた子供は蛇やカエルなどの姿であり、これを見た太陽や月の神がしかるべき交わり方を教えると、ようやく人間の男の子や女の子が生まれたという筋になっている[6]。同じような大洪水神話は中国の西南地方に住む苗族、彝族、ヤオ族などをはじめ、中国南部から東南アジア、太平洋にまで見られる。これらの神話では、兄妹だけが大洪水から生き残り、樹木や山など高い物の周りを回ったあとに近親結婚して子供をもうけるものの、最初の子供は肉塊や動物であり、天や神から正しい交わり方を教えられて初めて人間の子供ができる、という共通する筋があり[7]、日本神話のイザナギ・イザナミ神話との関連性もみられる。生き残った兄妹による近親結婚を部族起源とする類型は後述の中央アフリカ・マンジャ族にもみられる。
インド
ヒンドゥー教の聖典(プラーナ、特にマツヤ・プラーナと、シャタパタ・ブラーフマナ I, 8, 1-6)によれば、ヴィシュヌ神のアヴァターラとして魚の姿のマツヤがマヌに、大洪水が来てすべての生物を流し去ってしまうだろうと警告した。 マヌは魚の世話をして、結局魚を海に放した。 そこで魚はマヌに船を作るように警告する。彼が船を作ると、洪水が起こり、魚は自分の骨につけたケーブルで船を安全に牽引した。マヌは北方の山(ヒマラヤと推測される)まで牽引された。世界にはマヌだけが残り、マヌが新たな人類の祖先となった。
インドネシア
バタクの伝承では、地球は巨大なヘビのナーガ・パドハ(Naga-Padoha)の上にあった。ある日、ヘビはその負担に耐えかねて、地球を海に振り落とした。しかしバタラ(Batara)神が海に山を送り出したおかげで神の娘は救われた。人類は生き延びた神の娘を祖先としている。のちに地球はヘビの頭上に戻された。
ポリネシア
ポリネシア人の間では、いくつかの異なる洪水伝説が記録されている。それらには、聖書の洪水に匹敵する規模のものはない。
ライアテア(Ra'iatea)の人々の話では、二人の友人、テアオアロアとルーは釣りに出かけ、偶然釣り針で大洋の神ルアハトゥ(Ruahatu)を起こしてしまった。怒って、彼はライアテアを海に沈めると決めた。テ・アホ・アロア(Te-aho-aroa)とロオ(Ro'o)は許してほしいと懇願し、ルアハトゥは彼らにトアマラマ(Toamarama)の小島に家族を連れて行かなければ助からないだろうと警告する。彼らは出帆し、夜の間に島は大洋に沈み、次の朝だけ再び出現した。 彼らの家族以外は助からず、彼らは マラエ(marae: 寺)を建ててルアハトゥ神に奉納した。
同様の伝説は、タヒチにもみられる。 特に理由もなく悲劇は起こり、 Pitohiti 山以外は島全体が海に沈む。 一組の人間の夫婦が動物を連れてどうにかそこにたどり着き、生き延びる。
ニュージーランドのノースアイランド、東海岸のマオリ族のンガーティ・ポロウ(Ng?ti Porou)の伝説によれば、ルアタプ(Ruatapu)は、父のウエヌク(Uenuku)が若い異母兄弟カフティア・テ・ランギ(Kahutia-te-rangi)を自分の前に上げたことに怒った。ルアタプはカフティア・テ・ランギと大勢の高貴な若い男たちを自分の船に誘い出し、彼らを海に放り出して溺れさせた。 彼は神々に敵を攻撃するよう求め、初夏の大波になって戻ってこいと脅した。 カフティア・テ・ランギは必死でもがいて、南のザトウクジラ(マオリ語でpaikea)に自分を海岸へ運んでくれるよう祈願する呪文を唱えた。 それから、彼は名をパイケア(Paikea)と変えたが、生き残ったのは彼一人だった。(Reed 1997:83-85).
マオリのタファキ(Tawhaki)神話のいくつかは、主人公が洪水を起こして、嫉妬深い二人の義兄弟の村を破壊するというエピソードを有する。 グレイの『ポリネシアの神話』の中の記述が、マオリが以前には有しなかった何かを彼らに与えたのかもしれない=A.W Reed がそうしたように。 「ポリネシアの神話のグレイの言によれば、タファキの先祖が天の洪水を放ったとき、地球は圧倒されてすべての人類が死んだ - このようにグレイ自身の有する全世界的な洪水伝説をマオリに伝えた」(Reed 1963:165 脚注)。 キリスト教の影響は、タファキの祖父ヘマがセム(聖書の大洪水に出てくるノアの息子)として解釈しなおされた系図に現れている。
ハワイでは、ヌウ (Nu'u) とリリ・ノエ (Lili-noe) という人間の夫婦が、大島のマウナ・ケアの頂上で洪水を生き延びる。 ヌウは月に供物をささげたが、彼は自分の安全を感謝する相手を間違えたのである。 創造主のカーネ・ミロハイ (K?ne Milohai) は、地球に虹をかけ、ヌウの間違いを指摘し、その供物を受け取った。[注釈 2]
マルケサスでは、偉大な軍神 Tu が妹の Hii-hia の批判的意見に怒る。彼の涙は天国の床を突き破って下界へ落ち、すべてを流し去るような雨の奔流を生み出した。 ただ6人の人々だけが生き残った。
アフリカ
マンジャ
中央アフリカのマンジャ族の神話にも大洪水によってほぼ人類が絶滅し、生き残った男女(兄妹)によって部族が成立したという物語がある。セト(または、ガラ・ワン・ト)と呼ばれる文化英雄がおり、部族の先祖と考えられ、立ち位置としてはノアにあたる(内容は天地創造と人類の起源も混合している)。洪水に関しては神によって起こされた(神罰)という考えはなく、突然の災害と伝え、また、アジア地域の伝説と同様、兄妹の近親結婚を部族の起源としている。
至高神ガレによって大地が創造された後、一掴みの土と風で、最初の男女が創られた。次に杵を持たせ、地上へ遣わせた。ガレは男女をボゲルドゥ(杵の民)と呼んだ。彼らは多くの子を産んだ。だがある夜、大洪水が起こり、人類をほぼ絶滅させてしまう。セトという人とその妹だけは穀物をつく竿に乗って助かった。妹は長ずるに及んで次第に色目を使いだし、セトの方も自身の性欲を抑えがたく、惹きつけられていくが、妹は神聖なもので、人はその姉妹と恋を語らうことはできない。どうしたら目的は達せられるか。その後、占い師の老女の助言を得て、目的は達せられ、息子、娘と交互に産んでいき、マンジャの世界が成立することになる。
起源をめぐる説
これらの大洪水説話の起源については、さまざまな解釈が示されている。
一つの解釈として、大洪水説話には、人々の悪徳を罰するために大洪水がもたらされ、限られた正しい人だけが生き残るという共通パターンがある。これは、人々に善を勧めるための寓話と解釈することができる。
また、下記のように有史以前に起こった実際の洪水の記憶が大洪水説話の基となっているという説がある。
地域的洪水説
人類学者の研究では、ほとんどの古代文明が、土地の肥沃な川または海のそばで発達していることを指摘する。 古代人たちにとって河川は農業用水をもたらす命の源であるとともに、ひとたび氾濫すれば全てを押し流す恐るべき存在である。狭い世界に住む古代人にとって、一つの大河の氾濫はまさに「世界を呑みつくす大洪水」であっただろう。そのような人々が洪水の強烈な記憶に対し、洪水にまつわる神話を生み出して、彼らの人生にとって欠かせない部分を説明し対処しようとするのは珍しいことではない。実際、河川の氾濫や、津波の被害を受けない地域の民族は、大洪水説話を持っていないことが指摘されている。
メソポタミアの大河、たとえばチグリス川では雪解けの時期にアナトリアの山地で増水が起こり、時としてこれが下流で大氾濫をもたらす。下流のシュメールなどの人々にとって、前触れもなく突然押し寄せる洪水は大きな脅威であり、そこからこうした洪水を生み出した原因や結果を題材にする神話も生まれた。考古学者のマックス・マローワンとレオナード・ウーリーは、紀元前2900年頃に起こったユーフラテス川の氾濫がシュメール神話における大洪水説話を生み出し、これが伝播して旧約聖書を含めた各地の大洪水説話を生んだと主張した。聖書学者のキャンベルとオブライエンによれば、創世記の洪水神話ではヤハウェ資料による記述と祭司資料による記述の両方が、バビロニア追放(紀元前539年)以後に制作されたもので、バビロニアの物語に由来するという。
アトラハシス叙事詩のタブレットIIIのiv、6-9 行目で明らかに洪水が地域的河川氾濫だと確認できる。「とんぼのように人々の遺体は川を埋めた。いかだのように遺体は船のへりに当たった。いかだのように遺体は川岸に流れ着いた。」シュメール王名表 WB-444 はジウスドラの支配の後に洪水を設定しているが、彼が、他の洪水伝説と多くの共通点を持つジウスドラ叙事詩における洪水の主人公である。 考古学者のマックス・マローワン[8] によれば、創世記の洪水は「紀元前2900年頃、初期王朝の始まりに実際に起こった事象に基づいている」という。
また、ギリシャの考古学者アンゲロス・ガラノプロスは、紀元前18世紀から15世紀のサントリーニ島の火山爆発によって起きた大津波の記憶が、ギリシャ神話のデウカリオンの洪水やアトランティス説話の起源となっているとの説を唱えた。
地球大洪水説
これに対して、地球全土を襲うような大洪水が実際に起こって、これが全世界の大洪水説話を生み出したという主張がある。これらはしばしば疑似科学の分野に踏み入っており、また旧約聖書の記述であるノアの洪水が史実であるとするキリスト教根本主義と親和性が強い。
主な説としては
イマヌエル・ヴェリコフスキーの説 - 金星が大接近して大洪水が起こった
ゼカリア・シッチンの説 - 未知の惑星ニビルが大接近して大洪水が起こった
アレクサンダー・トールマンの説 - 氷彗星が地球に衝突して大洪水が起こった
高橋実の説 - 未知の氷惑星が大接近して大洪水が起こった[9]
また、月から水が降ってきて大洪水になったなどといった変わった説も含め、さまざまな「古代大災害説」が主張されており、百家争鳴の感がある。
海水準上昇説
大洪水を科学的に考察するならば、海水準の上昇による大陸平野部の水没である可能性が極めて高い。最終氷期の終了後には大量の氷河が融解し、汎地球的に海水準が100m以上も上昇した。(氷河性海水準変動)。これにより当時の沖積平野の大部分が海面下に水没し、現在の大陸棚となったと考えられる。その時の記憶が、大洪水として、世界中の神話や伝説となって今日まで伝えられていると考えられる。
また、ウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンは、紀元前5600年ごろ、地中海から黒海にかけて破壊的大洪水があったという黒海洪水説を唱え、この記憶がノアの洪水の起源になったと主張された。この説はノアの大洪水の科学的根拠として最近は有力視されている。
関連する諺
我々の後に大洪水あれ。Apres nous, le deluge.(フランス語)
後は野となれ山となれ。なおle deluge(大洪水)とはノアの洪水のことをさす。我の後に大洪水あれ Apres moi, le delugeともいい、これは、ハプスブルク君主国のマリア・テレジアがフランスと組んでプロイセン王国のフリードリヒ2世と七年戦争をおこして1757年に敗れた際、ルイ15世またはルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人が相手に言ったとされる。
注釈
^ これらのアステカの翻訳は論議を呼んでいる。多くは確かな出典がなく、信頼性を証明できない。いくつかは Coxcox の絵文字で書かれた物語をベースにしているが、この絵文字を翻訳した他の文献は洪水には何も言及していない。もっとも問題なのは、これらの神話が地元の人々から聞き取られたときには、すでに宣教師が相当に定着した後なのである。
^ この物語は完全にキリスト教の流儀に影響されており、聖書のノアの物語の知識がしっかりと根付いている。真のハワイ神話とはいえそうもない[要出典]。
出典
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参考文献
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W. G. Lambert and A. R. Millard, Atrahasis: The Babylonian Story of the Flood, Eisenbrauns, 1999, ISBN 1-57506-039-6.
関連書籍
山田仁史 「大洪水 (Sintflut) と大火災 (Sintbrand) の神話」 『水と火の神話 「水中の火」』 篠田知和基編、楽瑯書院、2010年。
アトランティス(古代ギリシア語: Ατλαντ??)は、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』[1]及び『クリティアス』[2]の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。
1882年、アメリカの政治家イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリー(英語版)が著書『アトランティス―大洪水前の世界』[3]を発表したことにより「謎の大陸伝説」[注 1]として一大ブームとなり、更にオカルトと結びつくことで多くの派生研究を生んだ。 近年の研究によって、地中海にあるサントリーニ島の火山噴火によって、紀元前1400年ごろに突然滅んだミノア王国がアトランティス伝説のもとになったとする説が浮上してきた。また、ヘラクレスの柱をダーダネルス海峡とし、トロイア文明と重ねる人もいる。しかし、大西洋のどこかにアトランティスがあると信じる人も未だ存在する。もっとも、現代の構造地質学が示すところによれば大陸規模の土地が短時間で消失することはまずあり得ないため、実在説の多くは島などの消失がモデルになったものとしている。
なお、アトランティスの直接的モデルとなるような事件そのものが存在しないという説も有力である点に注意されたい。
アトランティスの語源
本来古代ギリシア語の「Ατλαντ?? アトランティス」という語は、ギリシア神話のティーターン族の神 ?τλα? アトラスの女性形であり、「アトラスの娘」「アトラスの海」「アトラスの島」などを意味する[注 2]。
アトラス神
「?τλα? アトラス」は(1)『支える』を意味する印欧祖語の dher に由来する(2)ベルベル諸語の語が元で、ベルベル人のアトラス山脈への信仰に由来するなど、その語源には諸説ある。アトラス神への言及はホメロス(紀元前9-8世紀頃に活躍)の『オデュッセイア』が初出で、「大地と天空を引き離す高い柱を保つ」と謳われている(Hom.Od.i.52)。 一方、ヘシオドス(紀元前700頃に活躍)の『神統記』以降は、ティーターノマキアーにおいてティーターン族側に加担した罪で、地の果てで蒼穹を肩に背負う姿として叙述されるようになり、フルリ人やヒッタイト人の神話に登場するウベルリの影響を受けたものと考えられている。また、アトラスが立つ地の果ての向こうの大洋には島があり、ニュクス(夜)の娘達とされるヘスペリデスが、ゴルゴン族の傍らで黄金の林檎を守っているとされ(Hes.Theog.213-216,275-280,517-521) 、後にアトラスの娘達として知られるプレイアデスやアトランティデスなどと同一視されるようになる(Diod.iv.27.2; Paus.v.17.2,vi.19.8)。
アトラスの海、アトラス山脈とアトラスの名前を冠する諸民族[編集]
プラトンの対話集に先立ち 「Ατλαντ?? アトランティス」という表現は大西洋を意味する地名として使われている。ヘロドトス(紀元前484頃-420頃)は『歴史』の中で大西洋を「アトランティスと呼ばれる、柱[注 3]の外の海」と記述した(Herod.i.203.1)。以降、大西洋は今日に至るまで「アトラスの海」や「アトラスの大洋」と呼ばれるようになったのである[注 4]。
またヘロドトスはアトラス山脈について初めて言及しているが、山脈としてではなく単独の雪山としてリビア内陸のフェザン地方にそびえているものとして記述し、その山麓の砂漠に暮らす、日中の太陽を呪い、名前を持たない古代ギリシア語: ?τ?ραντε?(アタランテス人)と、肉食をしないために夢を見ない古代ギリシア語: ?τλαντε?(アトランテス人)に触れている(Herod.iv.184-185)。
シケリアのディオドロス(紀元前1世紀に活躍)は『歴史叢書』の中で、アフリカの大西洋岸(モロッコ西岸)に聳えるアトラス山と、その麓でギリシア人並の文明生活を送っている古代ギリシア語: ?τλ?ντιοι アトランティオイ人について記載している。アトランティオイ人の神話によると、ウーラノスがアトランティオイ人に都市文明をもたらし、その後ティーターン達が世界を分割統治した際にアトラスが大西洋岸の支配圏を得たが、アトラスはアトラス山の上で天体観測を行い、地球が球体であることを人々に伝えたという。また、アトラス王は弟ヘスペロスの娘ヘスペリティスと結婚して7人の美しい娘達(ヘスペリデス、アトランティデス)の父となり、エジプトのブシリス王の依頼を受けた海賊に誘拐されてしまった娘達をヘラクレスが救った際に、その礼としてヘラクレスの最後の功業を手伝ったのみならず、天文の知識を教えたが、これがギリシア世界でアトラスの蒼穹を担ぐアトラス伝説へと変化してしまったという(iii.56-57,iii.60-61,iv.27)。
ストラボン(紀元前64頃-紀元23頃)の『地誌』においては、アトラスはマウレタニアの山脈として認識されるようになり、ベルベル人はデュリス山脈と呼ぶと紹介している。また、ストラボンは、ジブラルタル海峡以西のアフリカ沿岸世界については、古来より嘘にまみれた様々な創作のせいで、真実の報告を見分けるのは難しいとも述べている(Strabo.xvii.3.2(p.825?826))。
ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス, 23-79)の『博物誌』は、歴史家ポリュビオス(紀元前200頃-118頃)や クラウディウス帝時代のローマの遠征軍がマウレタニアで得た知識を元に、現地の言葉でディリス山脈とも呼ばれるアトラス山脈の地理を詳しく記述しており、古典時代のギリシア人の北西アフリカにおける不正確な地理的知識は、当時この地との交易を支配していたカルタゴ人の航海者ハンノ[4]以来、さまざまな空想の混じった伝聞が流布してしまったことによるものと指摘している(Plin.Nat.v.2-5(s1))[注 5]。アトランテス人に関してはヘロドトスのアタランテス人の特徴と混ぜて引用し、リビアの砂漠の奥に住むと記述している(Plin.Nat.v.14(s4))。また、ポリュビオスの報告として、アフリカのアトラス山脈の大西洋側の末端の山の沖合いに、ケルネ島とアトランティス島があると記述している(Plin.Nat.vi.60(s36))。
ポンポニウス・メラ(英語版)[5]は『世界地理』の中で大西洋岸に面したアトラス山を紹介し(Mela.iii.101(s4))、また、リビアの内陸に住むアトランテス人についても、ほぼ大プリニウスと同様の内容を記述している(Mela.i.23(s1),i.43(s2))。
クラウディオス・プトレマイオス(90頃-168頃)は『地理学』の中で、アトラス山脈の大西洋側の末端に相当する岬の山として、大アトラス山(経度8°北緯26°30′[注 6])と小アトラス山(経度6°北緯33°10′)について座標を与えている(Ptol.Geo.iv.1.2)。
パウサニアス(2世紀に活躍)の『ギリシア案内記』はリビアの砂漠の中に住む民族としてヘロドトスのアトランテス人を引用し、この民族は大地の広さを知っており、リクシタイ人[6]とも呼ばれることを記している。また、砂漠の中のアトラス山からは3つの川が流れ出るが、全て海へ流れ込む前に蒸発してしまうという(Paus.i.33.5?i.33.6(s.5))。
プラトンのアトランティス伝説
作品構想と背景
『ティマイオス』と『クリティアス』は、プラトンがシュラクサイの僭主ディオニュシオス2世の下で理想国家建設に失敗した後、晩年にアテナイで執筆した作品と考えられている。両作品はプラトンの師匠である哲学者ソクラテス(紀元前470頃-399)、プラトンの数学の教師とも伝えられているロクリスの政治家・哲学者ティマイオス(紀元前5世紀後半)、プラトンの曾祖父であるクリティアス(紀元前500頃-420頃)[注 7]、そして、シュラクサイの政治家・軍人ヘルモクラテス(紀元前450頃-408/407)の4名の対談の形式で執筆されている。『ティマイオス』では主にティマイオスが宇宙論について語り、『クリティアス』では主にクリティアスが実家に伝わっているアトランティス伝説について語っている。ヘルモクラテスは一連の作品群で語りの役割を果たしていないが、作品中ソクラテスによって第三の語り手と紹介されていることから(Pl.Criti.108a)、 アトランティスとアテナイの間の戦争に関して軍人ヘルモクラテスに分析させた、『ヘルモクラテス』という作品が構想されていたという説が、プラトンの対話集の英訳で知られる英国の古典学者ベンジャミン・ジャウエット(英語版)などにより提唱されている[注 8]。
クリティアスの家で行われたとされるこの対談が現実のものであったとするのなら、ニキアスの和約が成立した紀元前421年8月頃のパンアテナイア祭りの最中で、(Pl.Criti.21a)クリティアスの孫のプラトンはまだ6歳の少年としてこの話を横で聞いたということになる。また、対談には病気で欠席した人間がいることになっている[注 9](Pl.Criti.17a)。
核となる伝説は、アテナイの政治家ソロン(紀元前638頃-559頃)がエジプトのサイスの神官から伝え聞いた話を親族にして友人のドロピデ(Dropides, 紀元前6世紀前半頃)に伝え、更にその息子のクリティアス(紀元前580頃-490頃)が引き継ぎ、更に同名の孫のクリティアスが10歳の頃に90歳となった祖父のクリティアスからアパトゥリア祭(英語版)の時に聞かされた事として、対話集の中で披露されている(ソロンとクリティアス、プラトンの血縁関係はクリティアス (プラトンの曾祖父)参照)(Pl.Tim.20d-21e)。 作中の神官によると、伝説の詳細は手に取ることのできる文書に文字で書かれていることになっている(Pl.Tim.24a)。ソロンはこの物語を詩作に利用しようと思って固有名詞を調べたところ、これらの単語は一度エジプトの言葉に翻訳されていることに気付いた。そこでソロンはエジプトで聞いた伝説に登場する固有名詞を全てギリシア語風に再翻訳して文書に書き残し、その文書がクリティアスの実家に伝わったという(Pl.Criti.112e-113b)。ソロンは結局帰国後も国政に忙しかったため、この伝説を詩に纏めることができなかったとされている(Pl.Tim.21c-21d)。
『ティマイオス』
『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの『国家』とほぼ対応している。そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説が語られる。
アマシス2世(英語版)アアフメス2世、紀元前600頃-526年)が即位した後の紀元前570-560年頃、ソロンは賢者としてエジプトのサイスの神殿に招かれた。そこでソロンは、デウカリオンの洪水伝説で始まる人類の歴史の知識を披露する。
すると神官たちの中より非常に年老いた者が言われた「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス(ギリシア人)は常に子供だ。ヘレン(ギリシア)には老人(賢者)がいない」
? Pl.Tim.22b
神官は、古来より水と火により人類滅亡の危機は何度も起こってきており、ギリシアではせっかくある程度文明が発達しても度重なる水害により都市とともに教養ある支配階級が絶滅してしまうため、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。また、女神アテナと同一視される女神ネイトが神官達の国家体制を建設してまだ8000年しか時間が経っていないが、[注 10] アテナイの町はそれよりさらに1000年古い9000年前(即ち紀元前9560年頃)に成立しており、女神アテナのもたらした法の下で複数の階層社会を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げる。
その頃ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の入り口の手前の外洋であるアトラスの海[7]にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内(地中海世界)を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。
しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方(=アテナイ勢)の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。
? Pl.Tim.25c-d
ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。
『クリティアス』
作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対談と同じ日に行われた続編にあたる対談であることが示唆されている。ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。
アトランティスと戦った時代のアテナイ
9000年以上前、ヘラクレスの柱の彼方に住む人々とこちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民は私有財産を持たず、多くの階層に分かれてそれぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリスも遥かに広い台地であったが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。また洪水のたびに山岳に住む無学の者ばかりが生き残るため、今日アテナイには当時の統治者の名前ぐらいしか伝わっていない。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス[8]、エレクテウス[9]、エリクトニオス[10]、エリュシクトン[11]などを挙げたとソロンは証言している。
アトランティスの建国神話
アトランティス島の南の海岸線から50スタディオン (約9.25 km)の位置に小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノル(英語版)[12]が妻レウキッペ(英語版)[13]の間にクレイト[14]という娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海神ポセイドーンはクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。即ち『アトラスの海』 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王 アトラス、スペインのガデイラに面する地域の支配権を与えられたエウメロス[15]ことガデイロス[16]、アンペレス[17]、エウアイモン[18]、ムネセウス[19]、アウトクトン[20]、エラシッポス[21]、メストル [22]、アザエス[23]、ディアプレペス[24]で、ポセイドーンによって分割された島の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。ポセイドーンは人間から隔離するために、クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリスとするアトランティスの都、メトロポリス[25]が人間の手で形作られていった。
アトランティスの都
アクロポリスのあった中央の島は直径5スタディオン(約925m)で、その外側を幅1スタディオン(約185m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2スタディオン(約370m)の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3スタディオン(約555m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。一番外側の海水路と外海は、幅3プレトロン(約92.5m)、深さ100プース(約30.8m)、長さ50スタディオン(約9.25km)[注 11]の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。3つの環状水路には幅1プレトロン(約30.8 m)の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。
中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドーン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン(約185m)、横3プレトロン(約92.5m)の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドーンに捧げられていた。ポセイドーンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドーンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドーンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル(葡萄酒を薄めるための甕)に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドーンに献じ、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きを行い、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものである。
また、アクロポリスにはポセイドーンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに『ポセイドーンの果樹園』とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン(約185m)の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン(約9.25km)の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。
都に隣接する大平原と軍制
アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。
島の南側の中央には一辺が3000スタディオン(約555km)、中央において海側からの幅が2000スタディオン(約370km)の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。平原は深さ1プレトロン(約31m)、幅1スタディオン(約185m)の総長10000スタディオン(約1850km)の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ[注 12]。大運河の中の平原は100スタディオン(約18.5km)の間隔で南北に100プース(約31m)の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。
平原は10スタディオン平方(約3.42km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。アトラス王の血統以外の他の9つの王家の支配する王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。
アトランティスの堕落
アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。
「(ゼウスは)総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所(オリュンポス山)に召集し、集まるとこう仰った」(Pl.Criti.121c)
ここで『クリティアス』の文章は途切れる。
他作品における言及
プラトンのアトランティス伝説は他の作品で引用されており、特にプルタルコス、アイリアノス、プロクロスは、プラトンの原文に載っていない情報を提供している。
ストラボン『地誌』
ストラボンは『地誌』の中で、ポセイドニオス(紀元前135頃-51)の著作である『大洋(オケアノス)について』(オリジナルのテキストは現存せず)の内容批判を行っているが、ストラボンの引用により、ポセイドニオスのアトランティス伝説に対する見解が残っている。ポセイドニオスは<例えばキンブリア人とその仲間の民族が移動を行ったのは、元々住んでいた土地が突然海に浸食されたことによるものと推測されるように>、プラトンのアトランティス伝説について、<「詩人(=ホメロス)がアカイア勢の防壁について行ったのと同様に、創作者(=ソロン または プラトン)が消し去った」などという意見があるが、プラトンが言うように真実を含んでいるとみなすべきである>と考えていたという。ストラボンはポセイドニオスの考えについては批判的だが、地殻変動に関してはポセイドニオスと同じ考えを持っており、プラトンのアトランティス伝説に関しては特に否定も肯定もしていない(Strabo.ii.3.6(p.102))。
なお、「詩人が創作し、破壊した」というのは、<トロイア戦争におけるイリオン湾のアカイア勢の防壁はホメロスの創作で、辻褄合わせのためにトロイア戦争終了後に防壁もろとも洪水で破壊されたことにした>という意味であり、ストラボンによると、プラトンの弟子であるアリストテレス(紀元前384-322)の見解とされている(Strabo.xiii.1.36(p.598))。 アリストテレスがプラトンを批判した文章が様々残っていることから、これらの文を組み合わせ、既にプラトンの生きていた時代からアリストテレスは、アトランティス伝説についてもトロイア戦争の防壁と同じようにプラトンの創作物とみなしたと解釈する人もいる。
キケロ『ティマエウス』、『最高善と最大悪について』、『国家』
マルクス・トゥッリウス・キケロ(紀元前106-43)はプラトンの『ティマイオス』をラテン語へ翻訳したが、現在残っている断片は宇宙論に関する部位のみであり(Pl.Tim.27d-37e, 38c-43b, 46b-47b)、アトランティス伝説に関する部位の翻訳は残っていない(Cic.Tim.)。またキケロの『最高善と最大悪について』と『国家』によると、ロクリスのティマイオスはプラトンの数学の師匠であったという(Cic.de Fin.v.29; de Re Publ.i.10)。
プルタルコス『対比列伝』、『イシスとオシリスについて』
プルタルコス(46頃-119以降)の『対比列伝』の『ソロン伝』によると、ソロンはアテナイで改革を行った後(紀元前594年)、海外を10年間旅し(紀元前593-584)、その最初にエジプトのカノープスを訪れ[注 13] 、その際ソロンはヘリオポリスのプセノピス[26]、サイスのソンキス[27]という博識な神官と親交を深め、特にサイスの神官から失われたアトランティスの物語を聞いたという(Plut.Sol.26.1)。このアトランティスの伝説、とりわけアテナイ人の関わる神話(ロゴス[28]とミュートス[29])についてソロンは執筆を始めたが結局中止してしまった(Plut.Sol.31.3)。
ソロンの血縁者であったプラトンは、アトランティスの物語を書き上げようとしたが、結局作品を書き終える前に亡くなり、今日アテナイのオリュンピエイオンの神殿に収められているプラトンの全作品の内、アトランティスの物語(=『クリティアス』)だけが未完に終わってしまい、本当に残念なことだとプルタルコスは感想を述べている(Plut.Sol.32.2)。このことから少なくともプルタルコスの時代には、すでに『クリティアス』は未完の作品として伝わっていたことが判る。
なおプルタルコスの別の作品『イシスとオシリスについて』の中でも、ギリシア人の賢者とエジプトの神官との交友の一例として、ソロンとサイスのソンキスの親交が挙げられている(Plut.de Is. et Osir.10)。
アイリアノス『動物の特性について』
アイリアノス (本名クラウディウス・アエリアヌス、175頃-235頃)は『動物の特性について』の中で、サルデーニャやコルシカ沖で冬場を過ごし、しばしば波打ち際で人すら襲うというタラッティオス・クリオス[30](『海の羊』) と呼ばれる海獣(シャチと解釈されることが多いが、イッカク説もある) について語っているが、大洋近くに住む住民に伝わる寓話として、ポセイドンの子孫であるアトランティスの王達は王の権威の象徴であるクリオスの雄の皮で作られた帯を頭に巻き、王妃達はクリオスの雌の巻き毛を身に付けていたという話を紹介している(Ael.NA.ix.49,xv.2)。
ピロン『世界の堕落について』
ユダヤ人の哲学者 アレクサンドリアのピロン(紀元前20頃-紀元50頃)は『世界の堕落について』(但し贋作と考えられている)の中で、プラトンのティマイオスからの引用として、リビアとアジアを合わせたよりも広かったアタランテスの島が異常な地震により一昼夜で消滅したことに言及している(Philo.Incor.xxvi)。
大プリニウス『博物誌』
大プリニウスは『博物誌』において、「プラトンの言うことを信じるのなら、大西洋[31]に広大な土地があったが」という前置きとともに、海に大地が削り取られた例として言及している(Plin.Nat.ii.90(s92))。これとは別に、アトランティスという名前の島がアトラス山脈の沖合いに現存していることを示唆している(Plin.Nat.vi.60(s36))。
アテナイオス『食卓の賢人たち』
ナンクラティスのアテナイオス(紀元200頃に活躍)は『食卓の賢人たち』の中で、食後のデザートに関する薀蓄としてプラトンのアトランティス伝説に登場する作物(Pl.Criti.115a-b)を引用している(Athen.Deipn.xiv.640d-e)。
テルトゥリアヌス『外套について』
クイントゥス・セピティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス(155頃-220頃)は『外套について』の中で、大地の姿形が変化した一例として、大西洋にあったというリビアやアジアと同じ大きさの島が消えた事を挙げている(Tertul.De Pallio.i.2.21)。
ポルピュリオス『プロティノス伝』
ポルピュリオス(234頃-305頃)の『プロティノス伝』によると、ネオプラトニスムの創始者といわれるプロティノス(205頃-270)の弟子ゾティコス(英語版)(265頃死去)は、コロポンのアンティマコス(英語版)(紀元前400頃に活躍)の詩を校正し、『アトランティコン』[32](アトランティスの物語)という詩の完成度を高めたという(Porph. Vit. Plot.7.12-16)。詩の内容は現存しない。
大アルノビウス『異邦人に対して』
大アルノビウス(英語版)(紀元3世紀末-330頃)は『異邦人に対して』の中で、1万年前にネプトゥヌスのアトランティカ[33]と呼ばれた島が沈み、多くの人々が消滅したというプラトンの言葉を信用していいのかどうかを自問している(Arnob.Adv.Gent.i.5.1)。
アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』
アンミアヌス・マルケリヌス(330頃-395)は『歴史』の中で、地震で誘発される現象を隆起(brasmatiae)、断層(climatiae)、沈下(chasmatiae)、轟音(mycematiae)の4種類に分類しており、地盤沈下の一例として、ヨーロッパよりも広い島が大西洋に沈んだことを挙げている(Ammian.Marcell.xvii.7.13-14)。
ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』
ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀頃に活躍)の『哲学者列伝』の『プラトン伝』によると、アレクサンドリアの図書館の館長であったビュザンティオンのアリストパネス(英語版)(紀元前264頃-180)がプラトンの作品を纏めた際、トリロギア(三部作集)の第1編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収録した(Diog.Laert.iii.61?62(s.37))。
一方ティベリオス・クラウディオス・トラシュルス(英語版)(紀元前1世紀-紀元36頃)はプラトンの作品を研究して年代順に9編のテトラロギア(四部作集)に纏め、その第8編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収めたが、それぞれに『自然について』[34]、『アトランティコス』[35](アトランティスの物語)という副題をつけたという(Diog.Laert.iii.56?60(s.35))。
カルキディウス『ティマエウス注解』
『ティマイオス』は400年頃にカルキディウス(4世紀-5世紀)によって再びラテン語に翻訳された。キケロのラテン語訳とは異なり、アトランティス伝説の部位を含む大部分のテキスト(Pl.Tim.17a-53c)が現存す(Calcidius,In Tim.5-68)。[注 14]。
プロクロス『ティマイオス注解』
ネオプラトニスムの哲学者として知られるリュキアのプロクロス・ディアドコス(英語版)(410頃-475)は、プラトンの『ティマイオス』に関する注釈『ティマイオス注解』を残しており、ネオプラトニスムに立脚したプラトンの作品の解釈が示されている。
当時すでに多くの人たちは、プラトンの記述が寓話であると考えており、アパメイアのヌメニオス(2世紀後半に活躍)、アメリオス(英語版)(3世紀後半に活躍)、オリゲネス(3世紀後半に活躍)、ディオニュシオス・カッシオス・ロンギノス(英語版)(3世紀後半に活躍)、ポルピュリオス、カルキスのイアンブリコス(250頃-330頃)、シュリアノス(英語版)(5世紀前半に活躍)などの解釈が紹介されている(Procl.Comm.Tim.24b-25e)。
ソロイのクラントル(英語版)(紀元前4世紀後半に活躍)は、プラトンの弟子であるカルケドンのクセノクラテス(紀元前396頃-314)の弟子で、初めてプラトンの書物に注釈をつけたとされる。現在では失われてしまったクラントルの古註によると、クラントルはアトランティスの伝説は総て真実だと主張しており、生前のプラトンは、アトランティスの物語を嘲笑する者に対しては、エジプト人にアテナイとアトランティスの歴史を尋ねろと反論したとのことである。また、クラントルは証拠として、この伝説が神殿の柱に今なお刻まれていると神官たちが主張していることを挙げている(Procl.Comm.Tim.24a-b)。
プロクロスが参考にしたあるエジプトの史書によると、ソロンはサイスの町ではパテネイト[36]、ヘリオポリスではオクラピ[37]、セベンニュトスではエテモン[38]という神官から知識を得たとされており、プルタルコスが記した神官の名前 (サイスのソンキス、ヘリオポリスのプセノピス)と異なる(Procl.Comm.Tim.31d)。
歴史家マルケッルス[39](紀元前1世紀頃に活躍)の『エティオピア誌』(現存せず) によると、大西洋の沖合いにはペルセポネーに捧げられた7つの島と、更に外側のプルトンとポセイドーンとアンモン(アメン)に捧げられた3つの島があり、ポセイドーンに捧げられた島は2番目に大きく、1000スタディオン(約185km)の大きさがあるという。かつては大西洋全域を支配したという広大なアトランティス島の住民の末裔がこの島に住んでおり、アトランティスの文化を継承していると記述している(Procl.Comm.Tim.54f-55a)。
コスマス『キリスト教地誌』
アレクサンドロスのコスマス・インディコプレウステス(6世紀中頃に活躍)は『キリスト教地誌』の中で、大地を取り囲む大洋の外を天空を支える大地が取り囲んでいるという地勢観を正統化するために、『ティマイオス』の記述を引用している。プラトンやアリストテレスに褒め称えられ、プロクロスによって注釈をなされているティマイオスによると、ガデイラの西の大洋にあったアトランティス島は10の王国からなり、10世代の間栄えたが、アテナイとの戦争の後に神罰として沈められたとあり、これはまさに天地創造から10世代後に起こったノアの大洪水そのものであり、おそらくティマイオスは、カルデア人から世界最初の歴史家であるモーセの書を知り、大洋の彼方からやって来た10人の王、海の下に消えたアトランティス島、住民を動員した軍隊によるヨーロッパとアジアを征服などといった話を総て創作して付け加えたのだという(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.376?377,381)。また、ソロモン(Solomon)と言う名のエジプト人がプラトンに向かって「ヘレネス(ギリシア人)は常に子供であり、誰も老人(賢者)にならず、またいにしえからの教えも全くない」などと言ったのは、他国のことを知らないギリシア人が自分たちこそが文字や法律を発明したなどと思い上がっているからであり、リュクルゴスやソロンなどといった輩よりも、モーセの方が偉大な立法者であると主張してい(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.379-380)。
コスマスはこのように『ティマイオス』に書かれている内容を色々混同して紹介していることから、コスマス本人はプラトンの原文を読んだことが無く、伝聞で内容を知ったと思われる。この時代よりプラトンを含む古代ギリシアの思想は反キリスト的とみなされ、アトランティス伝説も12世紀中頃のホノリウスの著作までしばし忘れ去られる。
ホノリウス『世界の模写』
オータンのホノリウス(英語版)(1080頃-1156頃)は『世界の模写』の中で、プラトンの名前を引用し、アフリカとヨーロッパを合わせたよりも広い巨大な島が、惨劇により凍った海[40]の下に沈んだことを述べている(Honorius Aug.Imago Mundi i.35)。ホノリウスはカルキディウスのラテン語訳でアトランティス伝説を知ったと思われる。
『世界の模写』はラテン語から様々な口語体に訳されており、例えばウィリアム・キャクストン(1420頃-1492)は1489年に 『The Mirrour of the World』という題名で英語訳を出版している。
関連する記述
ギリシア・ローマ時代の文献
覇権国家の崩壊伝説をモチーフとした類似の物語は、他の文献にも登場する。
ディオドロス『歴史叢書』
シケリアのディオドロスの『歴史叢書』は、同時代のハリカルナッソスのディオニュシオス(Dionysios、紀元前1世紀に活躍)の著作(該当する作品は現存せず)にまとめられたリビアの諸民族に関する内容を参考にしながら、アフリカに暮らす女人族である アマゾネス人[41]の歴史を記している。
トロイア戦争などで黒海沿岸に住むアマゾネスが有名だが、これとは別にアフリカに住んでいたアマゾネスがおり、こちらの方が歴史が古い。アトラス山の近くのアフリカの大西洋側にトリトン川[42]の水が流れ込むトリトニスの湿地帯[43]があり、巨大なヘスペラ島[44]があった。島は様々の農産物と畜産物に恵まれ、また、火山があり、ルビー、紅玉髄、エメラルドなどの鉱物を産した。この島に暮らす諸民族の一つであったアマゾネスは女性上位社会で、男性が家事・子育てをし、女性が政治と兵役を担った。女性は戦闘で乳が邪魔にならないように嬰児のうちに右側の乳房[45]を焼いており、そのためにアマゾネス(乳無し)と呼ばれた。アマゾネスはエチオピア系のイクテュイパゴイ人が暮らす神聖なメネ[46]の町を除き全島を掌握し、続いて湖周辺の諸民族を征圧した。そして、トリトニス島に突き出た半島に、アマゾネスの都ケロネソス[47](ギリシア語で『半島』)を建設した。
ミュリナ(英語版)[48]がアマゾネスの女王になると、歩兵3万人、騎兵3,000頭からなる軍勢を組織し、まず近隣のアトランティオイ人(上述)の町ケルネ[49]を破壊し、住民を虐殺した。これを恐れた他の町のアトランティオイ人は降伏し、アマゾネスの支配下に入った。アトランティオイ人は別の女人族であるゴルゴネス人の制圧を女王ミュリナに依頼したが、ゴルゴネス人の地の制圧には失敗した。当時エジプトの王はイシスの子のホロスであったが、ミュリナはエジプト王ホロスと同盟を結び、アラビア人の暮らすシリア、トロス山脈、カイコス川までの大プリュギア地方を戦争により制圧し、キリキア人を支配下においた。また、レスボス島には自分の姉妹の名前に由来する町ミュティレネ[50]を建設したほか、配下の腹心の女将にちなんだキュメ(英語版)[51]、ピタナ(英語版)[52]、プリエネ(英語版)[53]などの殖民市をイオニア海側に建設した。女王ミュリナが難破した際に立ち寄った島には、『聖なる島』サモトラケ[54]と名付けた。やがて女王ミュリナは、トラキアの亡命中の王モプソス[55]とスキタイの亡命中の王シピュロス(英語版)[56]の連合軍との戦いに敗れて死に、大多数が戦死したアマゾネス軍はアフリカの地に退却した。その後ペルセウスとその曾孫のヘラクレスにより、それぞれ女人族のゴルゴネス人、アマゾネス人は滅びてしまい、その記念にヘラクレスは柱を立てた。その後トリトニス湖の大西洋に近い側が地震により裂け、湖は消失してしまった(Diod.iii.52-55,Diod.iii.74)。
アイリアノス『多彩な物語』
アイリアノスは、『多彩な物語』の中で、キオスのテオポンポス(英語版)(紀元前380頃-4世紀末)の史書(該当作品は今日残っていない)に載っていた物語を掲載しているが、もしかしたらテオポンポスの創作かもしれないと断りを入れている。
プリュギアの王ミダスがセイレノスと親交を結んだ時、次のような物語がセイレノスの口より紡がれた。<我々の世界を取り巻く彼方の大陸には、我々の世界とは違う生物や文明が存在するが、そこにはマキモス[57](『好戦』)とエウセベス[58](『敬虔』)という対照的な二つの都市国家が存在する。金銀が豊富なマキモスは戦争に明け暮れて多くの部族を支配し、2千万人を下らぬ人口を有していたが、その多くは戦場で石や木製の棍棒で寿命を終えた。ある時マキモスは我々の世界を征服しようと1千万人の軍隊を連れてオケアノスを渡り、ヒュペルボレオイ[59](『極北の人々』)の地を訪れたが、その清貧な生活ぶりに落胆して、軍隊を連れ帰ってしまった。また、彼方の大陸のメロペス人[60]が住む領域に、アノストス[61](戻れぬ地)という場所があり、そこの水を飲むと死んでしまう。>(Ael.V.H.iii.18)
なお、ストラボンは『地誌』の中で、ホメロスの創作を詮無い事と弁護し、歴史家たちの同じような無知を告発する文脈として「テオポンポスが伝えたメロピス地方[62]」に言及している。テオポンポスの史書が実在したことを示すとともに、ストラボン本人はテオポンポスが書き記した一連の大陸の物語を真実とは見なさなかったことを示唆する(Strabo.vii.3.6(p.299))。
代表的な諸説
アトランティスの繁栄と滅亡について、それらの直接的なモデルが実在したとする考えは人気のあるもので、多くの説が唱えられてきた。その主たる論点は、「ヘラクレスの柱」解釈をめぐる位置問題とアトランティスを滅ぼしたとされる「洪水」の年代問題の考証である。
なお、一般に学術的にはアトランティスについて直接的モデルとなった歴史的事実が存在するとは考えられていない(つまり単なる伝承か、プラトンによる創作と考えられている)。
地中海説
サントリーニ島の火山噴火説が現在有力とも。サントリーニ島は阿蘇山のような巨大なカルデラの島であり、サントリーニ島の爆発による津波によって滅んだミノア王国(ミノア文明)をアトランティスとする。アトランティスに比べて国家としての規模が小さすぎることから文明消失のモデルとはなりえないとの否定的意見もある[63]が、規模と年代、及び位置についてはプラトンの誇張としている[64]。
誇張説とは、プラトンの記録が単位について全て1桁多く誤って記述しているとするもので、エジプトの司祭が100をあらわす象形文字と1000をあらわす象形文字を誤って記録したためという。年代は、プラトンの9000年前でなく900年前ならほぼ一致するし、アトランティスの大きさも記録の10分の1であれば納得できるとされている。
ガラノプロスはアトランティス伝説に登場する「ヘラクレスの柱」が、この場合ジブラルタル海峡を指すのではなく、現在のギリシャ南部にあるマタパン岬--当時の言葉で言えばマレアスとテナロンだとされ、地形上の特性にかなっているという--であると見ている。ガラノプロスはプラトンがアトランティスを青銅器文明だと述べているといい、ミノア文明が青銅器文明であることに合致するという。また、クノッソス宮殿遺跡から牡牛の絵画や造形物が多数発掘されたことから、ミノア王国においては牡牛が力の象徴として崇められていたことが判明しているが、これはアトランティスに牡牛崇拝があったというプラトンの記述と一致する。
また、周辺の海底に文明の痕跡が沈んでいるのが発見されているマルタ島の巨石文明をアトランティスとする説も唱えられている。この説では、暦の違いを把握していなかったプラトンが年代を大きく見積もりすぎたとしており、その点を修正すると、島内の神殿遺跡などと同じ5000年前あたりになるとする。
大西洋説
プラトンの叙述をそのまま適用すると大西洋にアトランティスがあることになる。しかし大陸と呼べるような巨大な島が存在した証拠はないので、アゾレス諸島やカナリア諸島などの実在する島や、氷河期の終了に伴う海水面の上昇によって消えた陸地部分。カナリア諸島は、黄金のリンゴがあるというヘスペリデス島のモデルだと考えられている。 多くの古代史家の著作に記載され、グイマーのピラミッドなどの遺跡が発見されていることや[65]10人の王の伝説などから支持されることが多い。
大西洋上には、アゾレス海台に位置するアゾレス諸島があるが、すべて火山島である。元々、アゾレス海台自体がひとつの大きな陸地であったものが、火山の大噴火によって、火山内部に空洞が発生し、その後この空洞が陥没したために海底沈んだという説も出されており、アゾレス諸島は当時の陸地の高山部分であるという説も出されている。
新しいところでは、2013年5月6日、ブラジル・リオデジャネイロの南東1500キロメートル沖にある海面下1キロメートルの海底台地調査において陸地でしか形成されない花崗岩が大量に見つかり、「この海底台地はかつて大西洋上に浮かぶ最大幅1000キロメートルの小大陸であったことが判明した」と、日本の海洋研究開発機構とブラジル政府が共同発表した。ブラジル政府は今回の調査結果について「伝説のアトランティス大陸かもしれない陸地がブラジル沖に存在していた重要な証拠」と強調した。日本とブラジルは、今後さらにこの海底台地を調査するとしているがのちに間違いといわれた[66]。
旧約聖書にあるタルシシュをアトランティスと見なす説も根強い。タルシシュはイベリア半島にあったとされるタルテッソスであると考えられており、現在ドニャーナ国立公園となっている。現在は湿地原として知られているが、古代は島であり、心部に遺跡が確認されている。海の民の拠点の一つという説もあり、高度な文明を持つ侵略国家というアトランティスのイメージとも合致する。ただし年代に関しては、大きな問題が残る。 [67]
この他、イギリス説もしばしば指摘される。ブリテン島やアイルランド、アイリッシュ海に沈んだ島など様々な候補がある。アイルランドにはケルト人の伝承として、イスの海没の伝説がある。
一方、アメリカ大陸がアトランティス島であるという説も根強い人気がある。マヤ文明や、近年ではアマゾン文明の発見がなされる中で、その文明がアトランティスに当たるのではないか、という説もある。実際に北米大陸では12000年前頃に大規模な氷河湖決壊洪水が連続して発生している。
大西洋沿岸を生息域とする生物の一部には、奇妙な習性を持つものもいるが、その原因として、巨大な陸地(=アトランティス)の沈没を上げる説が出されている。 例えば、ウナギはヨーロッパの河川から大西洋に出て、わざわざメキシコ湾流を逆流し、メキシコ沿岸のサルガッソー海で産卵する。サルガッソ海で誕生した稚魚は、メキシコ湾流に乗ってヨーロッパまで移動する。種族繁栄の点から言えば、メキシコ湾流を逆流しながら2, 3年かけてサルガッソー海まで移動することは、捕食される機会を増やすことになり、合理的とは言いがたい。しかし、この謎めいた行動も、大西洋上に陸地があり、メキシコ湾流がサルガッソ海とこの陸地の間を回流していたとすれば、メキシコ湾流の流れをうまく利用した極めて合理的な行動であると解釈できる。
ところが、何らかの原因で、この陸地が消失したためメキシコ湾流がヨーロッパ沿岸に到達するようになり、ウナギが一見奇妙な行動を取ったと推定できるのである。
プレートテクトニクス理論に基づく大西洋説[68]
現在の構造地質学、すなわちプレートテクトニクス理論に基づくと称する説もある。これは、大西洋の両岸の海岸線を近づけてもキューバのあたりで大きく隔たりがあることに意味があるとして、これを「何かが沈んだ空白地帯」と主張するものである。この「空白地帯」は大陸よりずっと小さいが日本列島ぐらいの規模はあり、ここにアトランティスがあったとする。あるいは、大陸移動前の南北アメリカ大陸とユーラシア大陸、アフリカ大陸がひとつであった時代、大陸棚がぴたりと一致するのは南アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線だけであり、ヨーロッパ、アフリカ、カナダの間の北大西洋上には、空間ができるが、これが沈没した陸地であるとの説もある(「アトランティスの沈んだ日」クラウス・グレーバー)。なお、アトランティスの大きさについては、プラトン自身もリビアとアジア(当時のギリシャ人の考えるアジアは、アナトリア半島の事である)を合わせた大きさであると書いており、大陸というより大きな島サイズである[69]。
南極説
オカルト雑誌ライターの南山宏が提唱する説で、ポールシフト(地球の自転軸移動)以前の南極大陸こそがアトランティスであるという説。この説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている点であるが、そもそも大陸の気候帯が急激に変動するような自転軸移動自体が地質学的にありえないとされているので大陸沈没同様荒唐無稽な説である(詳細はポールシフトの項を参照)。
なお、南極大陸から恐竜などの温暖な気候帯の生物の化石が発見されているのは事実であるが、プレートテクトニクスでは何万年もかけて大陸が移動した証拠とされている。
大海進説
紀元前9560年頃にアトランティスが海中に沈んだとするのは、氷河期の終焉による海面の上昇とかつての陸地の水没を指すとする説。五島勉のアスカ超古代文明説もこの説の一種といえ、最近ではスンダ古大陸文明説、沖縄古大陸説などもこの系統から派生している。
インド説
「アトランティス大陸の正体はインド亜大陸であり、沈んだのではなくて、運河が通航できなくなったがために通交が不能になった[要出典]」とする説。[注 15]
出所不明瞭の情報
ムー大陸
1862年頃フランスの聖職者シャルル=エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブルブール(Abbe Charles-Etienne Brasseur de Bourbourg, 1814-1874)は、マドリードの王立歴史学会の図書室でユカタン司教ディエゴ・デ・ランダ・カルデロン(1524-1579)が書き残した『ユカタン事物記』を発見し、 マヤ文字とスペイン語のアルファベットを対照させた表(ランダ・アルファベット)を見出した。ブラッスールはランダ・アルファベットを使ってトロアノ絵文書(後にエルナン・コルテスが所蔵していたとされるコルテシアヌス絵文書と合わせてマドリード絵文書と呼ばれるようになる)をキチェ語で解読し、トロアノ絵文書には「ムー」(Mu)と呼ばれる王国が大災害によって陥没した伝説が描かれており、アトランティス伝説と類似性があると1863年に発表した。今日この翻訳が完全に誤りであったことが証明されているが、この論文により「ムー」という単語が生まれた。
アメリカ合衆国の政治家ドネリーは、ブラッスールによるトロアノ絵文書の解読を新大陸の文明がアトランティス文明の末裔であることの重要な証拠として捉え、大洪水以前に大西洋に存在したアトランティス大陸こそが総ての人類の文明の揺り篭であると 1882年発表の『アトランティス―大洪水前の世界』の中で主張した。この書によりアトランティス伝説の大衆化が進んだ。またジャージー島出身の遺跡写真家として知られるオーギュスト・ル・プロンジョン(英語版)(1825年-1908年)もまたランダ・アルファベットによりトロアノ絵文書を翻訳し、アトランティス大陸崩壊後にムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作ったと主張した。
1930年代にはアメリカ在住の英国人作家ジェームズ・チャーチワード(1852年-1936年)によって太平洋に存在したというムー大陸が主張される。
科学的研究
1939年 - ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見。同時に火山灰が厚く堆積していることも確認した。
1956年 - アテネ大学の地震学者ガラノプロスがサントリーニ島を調査。炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることが分かった。
1967年 - マリナトスがサントリーニ島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿を発見。クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったとするフレスコ画を発見。
2013年5月6日、日本の海洋研究開発機構とブラジル政府は、「しんかい6500」を使用した調査において、リオデジャネイロ沖の大西洋で、大陸地域に存在する花崗岩が見つかったと発表した。しかし、岩石サンプルの採取には失敗、砂を採取した。海洋研究開発機構は、ブラジル地質調査所のRoberto Ventura科学研究部長の言葉を引用し「伝説のアトランティス大陸のような陸地が存在した極めて強い証拠」と世界に発表した[71]。しかしながら、花崗岩の存在は海水面上にある大陸の存在を必ずしも意味しない。海水面下にある薄い大陸地殻も世界中に多数存在する。巨大なものでは南太平洋のジーランド、インド洋のセイシェル周辺海域、小規模なものでは日本海の大和堆がその例である。「陸地が存在した極めて強い証拠」と言う下りは地質学の基礎を無視した都市伝説的論議である。
エジプト文明との関係の指摘[編集]
『エメラルド・タブレット』は「エジプトのギザの大ピラミッドの中から発見されたとの伝説をもつが、これには歴史的に伝承されたものと近年モーリス・ドリールにより発見された「世界最古の書籍」である原本と称するものがあり、その原本には、その著者はアトランティスの祭司王トートであり、タブレットIの文頭にて『われアトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の管理者、力ある王、正魔術師にして世々代々生き続ける者なるが…』と書かれているといわれている。
また、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』によれば、原本にはギザのピラミッドはトートが造ったとも記載されていることからエジプト文明の源流がアトランティスにあることも推測ができるとしている。
ただし原本のエメラルド・タブレットは、原史料の公開もなく他に写本もないことから学者からはその正確性を疑問視されている。
フィクションへの影響
『アトランティード』 - ピエール・ブノアの冒険小説(1918年)。アトランティスの所在を北アフリカに求めた作品で、サハラ砂漠に潜むアトランティス人の末裔を描いた。
『マラコット深海』 - コナン・ドイルのSF小説(1929年)。大西洋の深海に潜った生物学者一行が海底都市で生き延びていたアトランティス人たちと遭遇する。
『指輪物語』- 作品中のヌーメノールはトールキンによるアトランティス伝説の変形である。
『海底二万里』- ジュール・ヴェルヌの古典的SF小説。潜水艦小説のはしりでもある。作中でアトランティスの海底遺跡が登場。記事冒頭のイラストは初版の挿絵である。
『ムーの白鯨』 - 1980年に放映されたオリジナル・アニメ。3万年前に存在した、好戦的で支配欲の強いアトランティスの帝王ザルゴンが惑星直列の影響で現代に蘇る。
グーグル・アースによる探索[編集]
グーグル・アースの第5.0版で海底の地形が確認できるようになり、「31 15'15.53N 24 15'30.53W」の位置に人工的なグリッド線が見つかった。一部ネット上で、これはアトランティス大陸の痕跡ではないかとの騒ぎになった。グーグル社の会見では、これはソナーをつけたボートの軌跡が撮影されたものであるとしている。
脚注
注
^ プラトンはアトランティスについて「島」としているのだが、これにより「大陸」とも呼ばれるようになったアトランティス・ミステリー: プラトンは何を伝えたかったのかグーグルブック2015年7月4日閲覧。
^ 古代ギリシア語の古代ギリシア語: θ?λασσαタラッサ(=海)や古代ギリシア語: νη?σο?ネーソス(=島)は女性名詞である
^ ここで言う「柱」とはヘラクレスの柱のことである。
^ 羅: Atlanticum Mare、英語 Atlantic (Ocean) など。
^ ハンノの航海の記録はカルタゴのバアル・ハンモン神殿に青銅板に刻まれて奉納されていたが、カルタゴの滅亡と共に現物は失われており、『カルケドン王ハンノによりクロノス神殿へ奉納された、ヘラクレスの柱の彼方のリビュアの地の航海に関する記述』というギリシア語抄訳で現在にその内容が伝わっている。ケルネ島(現在の西サハラのダフラ)に植民市を建設したことや、その他後世に乱雑に引用されるアフリカ西岸の地名が伝わる。
^ プトレマイオスが『地理学』を記述するに当たり基準として設定した本初子午線は、当時西の果てと考えられていたカナリア諸島であり、グリニッジ子午線より西へ約20°ずれている。グリニッジ基準の東経とプトレマイオス記載の経度では、実際は地中海世界内で約30°ほどずれている。
^ このクリティアスは、アテナイの三十人僭主として独裁政治を行った、プラトンの母親の従兄のクリティアス(紀元前460頃-403)であるとする説が従来有力であり、スコットランドの古典学者ジョン・バーネットによってプラトンの曾祖父説が脚光を浴びるようになった。詳しくはクリティアス (プラトンの曾祖父)参照。
^ 『ヘルモクラテス』という続編の存在について唯一触れているのが、カルキディウスの『ティマエウス注解』で、ソクラテス(プラトンはソクラテスの言葉・思想をそのまま書き残したと考えられていた)は『国家』の続編として『ティマイオス』、『クリティアス』、『ヘルモクラテス』という連作を作ったと言及している(Calcidius,In Tim.6)。しかしながら、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』によると紀元前2世紀の段階で既に『ヘルモクラテス』という作品は存在しなかったことが示唆されている(Diog.Laert.iii.61-62(s.37))。
^ 病欠した人物はプラトンだとする説もあるが、当時のプラトンはまだ子供である。もっとも敵国の有力者同士がこのような対談をするはずがなく、あくまでもプラトンの創作の架空対談であり、病欠した人物というのは対談に真実味を出すためのプラトンの文学的テクニックであるとする解釈も一般的である。
^ この部分は(1)エジプトが建国されてから8000年、(2)ネイトを保護神とするサイスの町が建設されてから8000年、(3)サイス王朝が建国されてから8000年、の三通りの解釈がされて来ており、特にアトランティス伝説としては「アトランティスはエジプトの歴史よりも古い」という(1)の解釈が広まっているが、文中では神官がアテナイと「我々の」都市の制度の比較をし、サイスとアテナイを建設したとされるアテナの偉業を讃え(Pl.Tim.24a-24d)、エジプトが有史来正確に歴史を伝えていることを強調していることから(Pl.Tim.21b-22b)、(2)の解釈が一番妥当である。
^ 運河の長さが50スタディオンだとすると、海岸から中央のアクロポリスまでの距離は50 + 3 + 3 + 2 + 2 + 1 + 5/2=63.5スタディオンということになり、海岸からアクロポリスまでの距離(50スタディオン)、(Pl.Criti.112c)町を取り囲む城壁の半径(50スタディオン)(Pl.Criti.117e)などの記述と矛盾する。
^ これらの記述から大平原は東西3000スタティオン、南北2000スタディオンの長方形で、アトランティスの都はこの長方形の大平原の南端に位置し、海岸線との間に挟まれていたことになる。大運河の水がアトランティスの都の海水路に注いでいるのなら、都の一番外側の海水路の北側と大運河を結ぶ水路が存在しているはずであるが、都を迂回する形の河が流れていたことも考えられる。なお、2000スタディオンの幅を「平原の」中央から海までの距離と解釈し、歪な四角形(例えば東西の辺が3000と4000スタディオン、南北の辺が1000と2000スタディオン)を描く考えもあるが、徴兵制度の項目で説明で説明される平原の面積(600万平方スタディオン)と合致しない(Pl.Criri.119a)。
^ 紀元前593年頃にソロンがエジプトを旅したとなると、アマシス王の時代(紀元前570-526)とするプラトンの文章と矛盾する(Pl.Tim.21e)。
^ カルキディウスのラテン語訳は12世紀以降欧州で読まれるようになったが、特に『ティマイオス』に登場する宇宙論については詳しい解説を残しており、ヨーロッパ中世の宇宙論の基礎の一つとなった。但しカルキディウスはアトランティス伝説の部分に関しては翻訳をしただけで、解説は残していない
^ 実際に古代エジプトにも、ナイル川から紅海へ抜ける運河が存在した(中国・隋代の京杭大運河に比べれば総延長は遥かに短く、技術的には不可能ではなく、トンデモ説の類いではない)のだが、常に浚渫工事を行わないと砂に埋もれてしまうがために、放置されて使い物にならなくなったのである。プラトンの記述の「島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」という箇所に着目した説である。しかしながら古代エジプトの運河は、紀元前270年ないし269年にプトレマイオス2世が閘門つき水門を設置したという記録があり、これはプラトンよりも後世の出来事であるため、年代的な矛盾がある。
参考文献
『地球物理学者 竹内均の旧約聖書』 竹内均著 ISBN 4810380017
『スタイビング教授の超古代文明謎解き講座』 ウィリアム・H・スタイビング著 福岡洋一訳 ISBN 4872334825
『プラトンのアトランティス』 L・スプレイグ・ディ=キャンプ著 小泉源太郎訳 ISBN 4894563657
大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊
『トンデモ超常現象99の真相』 と学会著(山本弘 志水一夫 皆神龍太郎) ISBN 4896912519 ISBN 4796618007
『神々の指紋』グラハム・ハンコック著、大地瞬訳
『アトランティス物語 失われた帝国の全貌』 エドガー・エバンス・ケイシー著、林 陽訳
『アトランティスは沈まなかった―伝説を読み解く考古地理学』 ウルフ・エルリンソン著 山本史郎訳 ISBN 4562038780